【歌詞解釈シリーズ】黄昏時の雨に打たれた後に電車に乗ってたら俯きぐらいするだろ(前編)【竹内まりや/駅】

※注意
この記事には個人的解釈が多分に含まれます。
ド派手に歌詞にツッコミをいれていたりする箇所がありますが、間違いを正しているつもりなのではなく、よくあるサスペンス映画などで「殺人鬼がいるような部屋にいられるか!俺は部屋に戻るぞ!」とテンプレな言動をとる人物に「やめろそれフラグだぞ真っ先に殺されるだろ!」と思ってしまうのと同じような心の叫びだとご了承ください。

竹内まりやの代表曲

みなさんは竹内まりやの曲と聞いて何を思い浮かべるでしょうか。
年齢によって違うと思いますし、まず竹内まりやと聞いてもピンとこない若い人もいるかもしれません。
しかし、クリスマス時期のケンタッキーのCMの歌と聞けば、自然と脳内にあのメロディと歌詞が流れるのではないでしょうか。
ちなみにこの曲は2000年にケンタッキーのために書き下ろされた曲ではありますが、タイトルは『ケンタッキー』でも『クリスマスがもうすぐやってくる』でもなく『すてきなホリデイ』です。
(竹内まりやの夫である山下達郎の『クリスマス・イブ』と共に、この夫婦の曲は冬によく耳にすることが多い)

それはさておき。

【竹内まりや 代表曲】でGoogle検索すると数曲ヒットするのですが、その中に今回語りたい歌詞である『駅』があります。
(歌詞のみから感じる印象で解釈してほしいので『駅』の動画は最後に張りたいと思います)
しかしこの曲は、もともと竹内まりやが自分で歌うために書いたものではなく、1986年に中森明菜から依頼されて提供したものであり、竹内まりやの『駅』はその翌年に発売されたセルフカバーでした。
そしてこの『駅』は、とある事情から、発売されて35年以上の月日が経った今でも歌詞の解釈について議論が為されている歌でもあります。
ここの裏事情(調べればすぐに出てくる情報なので裏でもなんでもないのですが)の詳細を先に書いてしまったりすると変な先入観が生まれてしまうかもしれないのでひとまず後回しとし、ここから【歌詞解釈】という本題に入りたいと思います。

駅で元カレを発見した女性は、果たして過去にしっかり元カレに愛されていたのか

先程書いた通り『駅』は中森明菜が竹内まりやに依頼して作られた曲の一つで、1986年に発売された中森明菜の10枚目のアルバム『CRIMSON』に収録されています。
Wikipediaによると、このアルバムのコンセプトとして「女性作家陣による女性的な温かみや優雅さ」があり、それによって竹内まりやから5曲、小林明子から5曲の合計10曲が収録されたアルバムとのことです。
小林明子さんの代表曲かつデビュー曲は、1983年に放送されて社会現象にもなった連続テレビドラマ『金曜日の妻たちへⅢ』の主題歌である『恋におちて -Fall in love-』
竹内まりやと同じく1980年代に活躍された女性シンガーソングライターです。
二大女性シンガーソングライターから楽曲提供を受けたこのアルバムですが、ディレクターは「二十歳過ぎの女性が誰でも経験しそうな物語」を意識し「東急東横線の地域で暮らすオフィスレディ」をイメージして作られたそうです。
この制作背景を前提としたうえで、以下に駅の歌詞を一部引用、簡略化して情景をまとめていきます。

見覚えのある レインコート
黄昏の駅で 胸が震えた
はやい足どり まぎれもなく
昔愛してた あの人なのね

まず第一に、この歌の語り手は女性でしょう。
『昔愛してたあの人』は、続く歌詞の中で明確に『彼』と書かれているので男性としています。
語り手は『私』としか言っていないので、今のご時世的にジェンダーに配慮すると男性の可能性もなきにしもあらずです。
しかし上記の制作背景に加えて、1994年に発売された竹内まりやのアルバム【Impressions】のライナーノーツ(音楽レコードや音楽CDのジャケットに付属している冊子等に書かれる解説文)にて

中森明菜さんのアルバム用の依頼が来た時、 テーブルに彼女の写真を並べて、 情景イメージが出て来るまでずっと見つめて
せつない恋物語が似合う人だと結論を得た私が、めずらしくマイナーコードで一気に書き上げた

と、竹内まりやが記していますので、中森明菜のような女性を主人公に据えた曲としています。
いやまぁ想像は自由なので語り手も男性としてもいいのかもしれませんが、歌詞の解釈が大幅に変わりますし、今回語りたい歌詞のメインはここではないので女性とさせてください。

黄昏の駅。つまり、夕暮れの駅で見覚えのあるレインコートの男性を発見する主人公。
この駅が普段使いしている駅なのか、はたまた使い慣れていない始めて使う駅なのか、その詳細は歌詞からは分かりません。
ただ、コンセプトにある通り「東急東横線の地域で暮らすオフィスレディ」が主人公。
後年になって山下達郎が自身のラジオにて「『駅』に出てくる駅は渋谷駅」と発言したことがあるので、おそらく普段使いしている駅なのではないかと推測します。
そしてこの主人公が、見覚えのあるレインコートの男性を『まぎれもなく昔愛していたあの人』とした理由は、はやい足どり、です。
夕暮れの雨の駅とか誰だって速足になるだろ、と思わなくもない。
野暮なツッコミではありますが、このツッコミは最終的に纏める個人的な結論(この項の見出しがネタバレマックスですが)への重要な要因の1つでもあります。

さて、歌詞の続きです。

懐かしさの一歩手前で
こみあげる 苦い思い出に
言葉がとても 見つからないわ

見覚えのあるレインコート、そして記憶通りの早い足どりの彼を見つけた主人公は、懐かしさよりも先に苦い思い出が込みあがってくる。そしてその結果、かける言葉が見つからない。
姿を見て真っ先に浮かぶ思い出が、楽しいものではない。
ほろ苦いですらなく、苦い思い出。甘酸っぱいわけでも、くすぐったいわけでもない。
不意に元カレの姿を見つけたせいで楽しかった頃の思い出ではなく、苦い思い出、例えば別れの瞬間のような苦しさだけがフラッシュバックしたのかもしれません。
そして苦い思い出で言葉に詰まっている主人公が、本来元カレに告げたかった言葉が以下のように続きます。

あなたがいなくても こうして
元気で暮らしていることを
さり気なく 告げたかったのに…

え、久しぶりに会った人に初っ端にかける言葉が「私元気よ」という自己紹介!?
一般的には「元気にしてた?」って、相手の近状聞かない!?
聞く必要もないほど相手が元気だった or 元気がなかったのだとしても、それを聞くより先に自分の報告て。
もしも後者であれば余計に「ふーんあなたは元気ないんだ、私は元気だけどね」とマウント取る必要はないよね。

しかしこの主人公は、私は元気で暮らしているよと元カレに告げたかったわけです。しかも、さり気なく。
何気なく――特に意図もなく、意識せずに――ではなく、さり気なく――意図的なことを、相手にはそう感じさせないように――です。
なぜそんなにしてまで、私は元気でいるよと伝えたかったのか。
もし自分なら、誰に対してならば久しぶりに会った相手に「元気にしてたよ」と報告するかと考えたところ、かなり親しい親族ならばあり得るなと思い浮かびました。
自分のことを心配してくれているだろうなと思っている相手に対してなら、先んじて「久しぶりー、元気してたよー」と言えるわけです。それは決してさり気なくではなく、何気なくですが。
つまり、主人公からすると元カレは、今でも主人公のことを心配してくれている存在なわけです。
但しそれは主人公から見てというだけで、実際に元カレが主人公のことを心配し続けているかどうかは別問題。

久しぶりに出会った元カレへの想い

歌詞を続けます。

二年の時が 変えたものは
彼のまなざしと 私のこの髪
それぞれに待つ人のもとへ
戻ってゆくのね 気づきもせずに

はい、主人公と元カレが別れて二年が経過していることが判明しました。
そしてその二年で元カレのまなざしと、主人公の髪が変わっていると書かれています。
元カレのまなざしが違うのは、昔と違って主人公のことを見つめていないことを言っているのかもしれません。
もしくは、この後に続く歌詞の先取りとなりますが元カレはずっと「俯いて」いるようなので、私と付き合っていた時はもっと生き生きしていたのに、という元カレから感じる全体的な雰囲気への総評かもしれません。
外見から分かる元カレの変化は「まなざし」ですが、主人公の変化は「髪」で、この髪について解釈は三パターンできると思っています。

一つ目は「(あなたと別れてから髪を切ったので短くなった)私のこの髪」
二つ目は「(あなたと別れてから伸ばしている)私のこの髪」
最後に「(別にあなたと別れたことは関係なく二年の間に色んなヘアスタイルを試しているからあの頃とは違う)私のこの髪」

最後のパターンは歌としてあまりにも情緒がないと思うので除外し、残るは二つ。
そしてこの歌詞を考察している方は、ほぼ一つ目の解釈をしている気がします。
「失恋して髪を切る女性」のイメージの由来は、鎌倉時代などは元々女性は髪を切ったりせず、夫が亡くなった時や出家する時しか髪を切ることがなかったためについたものだというトリビアがネットにはありました。
確かに、令和でも髪を切った女性に対して「失恋したの?」と聞くようなデリカシーのない男性がいることは知っていますが、実際に恋人と別れて髪を切ったことがある女性は意外と少ないんだとか。
しかし普通に気分転換として散髪する人もいるでしょうし、歌詞、小説、漫画、アニメ、ドラマなどなどフィクションであれノンフィクションであれ「失恋して気持ちを新たに髪を切る女性」というのは、その人の心情やドラマティックな背景を想像する重要な要因となるでしょう。
切ない歌詞として描写されている以上、意味合いとしては一つ目の「(あなたと別れてから髪を切ったので短くなった)私のこの髪」でいいのかな、と思っています。
女性が髪を切る=吹っ切って気持ちを新たにするためというメタファーが込められているのならば、二つ目の意味合いが入っててもそれはそれで、主人公は「未だに元カレへの気持ちを吹っ切っていないから髪を伸ばしている」となって切なさが増すと思っているので、この歌を初めて聞いた時は私は二つ目の解釈をしていました。
ちなみにこれ、世間ではかなりの少数派のようです。

さてさて、まなざしが変わってしまった元カレと髪型が不明な主人公は、それぞれに待つ人のもとへ戻っていくようです。
そしてこの「それぞれに待つ人の元へ」が、主人公と元カレの関係性を不安定にしているセンテンスです。
この歌詞、つまりこの物語は、雨が降る夕暮れの駅で二年ぶりに元カレと主人公が出会ったことから始まります。
いや、出会ったという説明は正しくありません。

主人公が、元カレを、発見しただけです。

主人公は元カレに声をかけていないし、元カレは主人公に気づいてすらいないわけです。
元カレに「帰りを待つ誰か」が居るのかなんて、別れて二年経っている、その間連絡すら取っていなかった主人公が知っているはずがありません。
この疑問点を解消するためか、「この歌は不倫の歌だ」という解釈をしている記事を読んだことがあります。
お互いに家庭があるのに惹かれあっていた主人公と元カレだったが、二年前に未来が見えない逢引きに耐え切れず別れた。
懐かしさよりも先に苦い思い出がこみ上げたのは、不倫だったから。
それならば「それぞれに待つ人」がいると主人公が知っていてもなんの不自然もありません。

ただ、これも個人的ではありますが、それなりに竹内まりやを聞きながら育った身としては、もしもこの歌が不倫の歌であるならばもっと分かりやすいワードがちりばめられているのではないかと思っています。
竹内まりやが『駅』を中森明菜に提供した同年にはシングル『恋の嵐』を発売しており、女性の不倫を歌っているこの歌詞には「秘め続けた想いさえも隠せなくなる」や「もうこのまま止められない罪の始まり」など、とても分かりやすく不倫をイメージさせるセンテンスが入っています。

他人への提供曲だからもっとオブラートに包んだだけでは? と思われるかもしれません。
しかし記事前半に書いた通り竹内まりやが中森明菜に提供した曲は『駅』の他に四曲あり、その中の『OH NO,OH YES!』という曲の歌詞には「薬指のリングより人目忍ぶ恋選んだ」という歌詞が入っているので、提供曲だったから本来ならば入れるべきワードを入れないようにした、というのはないと思っています。

ちょっと話が飛び過ぎてて考察が長くなりそうなので『駅』の歌詞の続きを。

ひとつ隣の車輌に乗り
うつむく横顔 見ていたら
思わず涙 あふれてきそう

夕暮れ時の雨が降ってる渋谷駅の車内で、ひとつ隣の車両の人を見つめ続けれるものなんか?
電車と縁遠い生活を送っているので雨の日にレインコートを着て電車に乗ったことがないのですが、レインコートって脱ぎますよね?
なので多分元カレは電車に乗る前にレインコートを脱ぎ、畳むなりなんなりして座るか、吊り輪に掴まって立っているわけです。
夕方に。おそらく仕事を終えて疲れ果て。雨にも打たれていて。しっかりと体を拭くこともできないまま電車に揺られている。
俯きぐらいするだろうよ。

そもそも、この『駅』の歌詞には元カレの描写がとても少ないです。
主人公が元カレが元カレであると判断した理由は、二年前から使っていたらしい見覚えのあるレインコートと、早い足どり。この二点のみです。
話をぶり返しますが、もしも不倫が原因で別れたのならば、それこそ『OH NO,OH YES!』の歌詞のような分かりやすいワードを入れていていいはずです。
例えるなら「あの頃は外してくれていた 私のとは違うリングが光る薬指」みたいな。だってそっちの方が「それぞれに待つ人」の重みが増すと思いますし、元カレの説明としてもより分かりやすいと思います。
というか、竹内まりやなら、許されない恋や報われない恋の証拠やエッセンスをしっかりと盛り込むんじゃないかという何様目線な信頼があります。

しかしながら、解釈は人それぞれです。
歌詞に書かれていない彼や主人公の年齢や関係性やそれぞれの想いの質量などは、聞き手が自由に想像していいはずです。

そしてここから、『駅』最大の謎

聞き手が自由に想像するにしたって「てにをはって大事なんだぞ‼」と、声を大にして言いたい箇所です。

今になって あなたの気持ち
初めてわかるの 痛いほど
私だけ 愛してたことも

私は『駅』を初めて聞いた時から、元カレと主人公は大学の先輩後輩の関係で、先輩の卒業・就職と同時に別れたのではないかと想像していました。
『駅』の考察ブログでもほぼ全ての記事で元カレは年上だとされていて、彼は同級生や年下であると解釈しているブログは見た記憶がありません。
つまり、聞き手が感じ取れる元カレの年齢はそこまで差はないのです。
にもかかわらず、曲の販売から35年以上経っても議論されている点。
それがこの項の最初の見出しにもある通り、駅で元カレを発見した女性は、果たして過去にしっかり元カレに愛されていたのか。
もっと簡潔に言うならば、歌詞の「私だけ 愛してたことも」は

「(あの頃のあなたは)私だけ(を)愛していた」
を意味するのか
「(あの頃は)私だけ(があなたを)愛していた」
を意味するのか

です。
なにかを「初めて分かった」主人公ですが、あともう少し歌詞が続きます。

ラッシュの人波にのまれて
消えてゆく 後ろ姿が
やけに哀しく 心に残る
改札口を出る頃には
雨もやみかけた この街に
ありふれた夜が やって来る

ラッシュの人波ということは、やはりそれなりに電車内に人はいたのでしょう。
いや、その描写がないということは、電車内は空いていたのか、もしくは主人公は帰宅ラッシュの電車内でも元カレ以外は目に入らなかったのかもしれません。
ひとつ隣の車両からずっと元カレを見つめていた主人公。
人の波に消えていく元カレの後ろ姿もしっかりと見送っている主人公。
元カレと降りる駅が一緒だったのかは不明です。
元カレの背を追って元カレと同じ改札口を出て、雨が止んで今まで通りの夜空を見上げたのかもしれません。
はたまた、ひとつ隣の車両で、電車を降りてホームへ向かい人波に消えていった元カレの背をいつまでも見つめたまま感傷に浸った後、数駅先の自分が降りるべき駅の改札口を出たら雨が止みかけていたのかもしれません。
ここの時間経過は分かりません。
いずれにせよ、主人公と元カレの人生は交わらなかったわけです。

『私(を)』なの?『私(が)』なの?

ここまで、私はできる限り中立意見で歌詞を考察したつもりですが、ところどころに自分の解釈が滲んでいたかもしれません。
先に私個人としての結論を言ってしまえば、私はこの主人公は「(あの頃は)私だけ(があなたを)愛していた」ことに気づいたという解釈派です。
ちなみに、これは割と少数派であり、「(あの頃のあなたは)私だけ(を)愛していた」の解釈の方が主流です。
ただし付け加えて言わせていただくなら、個人的歌詞解釈は前者だけども、この歌が言いたいのは後者かなと思っています。

前者の解釈をしている理由を説明させてください。
ちょっと前に書いたことの繰り返しになりますが、この歌詞の中での元カレの描写はとても少なく、主人公が元カレが元カレであると判断した理由が「二年前から使っていたらしい見覚えのあるレインコート」と「早い足どり」の二点です。
レインコートに関しては(物持ちいい人だな)ぐらいの印象なのですが、早い足どりに関しては結構マイナスな印象でした。
例えば主人公と元カレの間にはかなり身長差があり、歩幅が違うために主人公からしてみたら歩くスピードが速く感じたともとれます。
ただ、なんというか、真っ先に「早い足どり」がその人らしさとして浮かぶのって、その人のことを遠くで見ている時の割合の方が多かったんじゃないの? って気がするんですよね。
もしも主人公は彼の近くにいるのに「歩く速度が速い」と思っていたのならば、その彼は主人公の歩幅に合わせてくれていなかった。
つまり、主人公に対してあまり気を使ってくれていなかったのかな、という印象になりました。
駅で見かけた時に距離があっただけで、足どり以外に彼を彼たらしめるような見た目や言動をしっかり見つけられるほど傍に近づけなかっただけかもしれません。
近づけなかった主人公は距離をとったまま俯いている元カレをひとつ隣の車両から見つめつつ「思わず涙 あふれてきそう」になったわけです。
でも大体、俯いている彼が何を考えているかなんて分かるわけがないんですよ。

ブログタイトル回収となりますが、黄昏時の雨に打たれた後に電車に乗ってたら俯きぐらいするだろ、と。
(雨に濡れて寒いし腹も減ったし早く家帰って眠りてー)と、人間の欲求に正直なこと考えながら無の表情してたりするだろ、と。

もしも俯いている姿が憂を帯びているように見えて、それを主人公が(彼は私と付き合っていたあの頃を考えてあんなに悲し気に俯いているんだわ!)と思ったのなら、いやそれかなり自惚れポジティブ!
だって主人公は遠くから彼を見かけただけなのに足どりだけで元カレに気づいて、その後ずっと隣の車両から見つめていたのに元カレは気づかず、結果として元カレの背中まで見送っているのに1ミリも彼は主人公に気づいてないんですよ。
二年って長いようで短いです。舞台となっている駅が普段使いしていて見慣れた駅だったとしても、もし元カレが主人公のことを考えていて俯いていたのなら(あぁ、あいつは今頃何をしているだろうか)だったり(あいつとここで遊んだなぁ)と想いを馳せてどこかに主人公の姿を探すようなOne more time one more chanceをしてていいわけですよ。

いつでも探しているよ どっかに君の姿を
向かいのホーム 路地裏の窓
こんなとこにいるはずもないのに

でも彼は気づかない!主人公の姿を探してもない!!
にも関わらず、ここで「あの時に彼は私だけを愛してくれていたのね」と思えるのがすごい!!
現在の彼に話しかけてもいないから『今の彼の気持ち』すら分からないのに、なんで余計に分かるわけがない『あの頃の彼の気持ち』を、今この状況で泣きそうになるほどに理解するのか分からない。
あの頃の彼から主人公に向けての好意があったのかなかったのかは彼自身に聞くしかありません。聞いてない以上、主人公は元カレの気持ちを勝手に推測しているわけです。
彼は私だけを愛してくれていた、彼は私を愛していなかった。どっちの判断をしたとて、それは主人公の『勝手な思い込み』でしかありません。
そして『駅』を初めて聞いた時の聞いた私は、歌詞から読み取った

・元カレは主人公と一緒にいた時は基本早足だった
・主人公が元カレを発見した時、懐かしさよりも先に苦い思い出がこみ上げてきた(愛されてると思えるよりも、愛されていないのではないかと思うような出来事が多かったのかもしれない)
・主人公は元カレが元気がない姿を見ても「自分の近状を伝えたかったのに」と思えるほどに自己愛が強い、または彼ならそれを許してくれると甘えている
・元カレは主人公に全く気づかない

以上の点から、「主人公はうっすら分かっていたが、彼は主人公のことをそんなに愛していなかったのかな」と『勝手な思い込み』をしていました。

世間の解釈の半分以上が『彼は私だけを愛してくれていた』であること

しかし、最初知った時にはかなり驚いたのですが、世間のほとんどは
【あの時の彼は間違いなく私だけを愛してくれていたと唐突に理解した主人公が彼の愛の深さに泣きそうになっているが、二人はよりを戻すことなくそれぞれ別の道を歩む切ない歌】
と考えているそうです。
それだと、主人公は俯いている元カレの横顔を見て(私のことを考えてあんなに憂いのある表情、まなざしをしているんだわ)と勝手に思い込んで泣きそうになった、ポジティブなのかセンチメンタルなのか分からない20代オフィスレディ……ってコト!? と、思わずハチワレ顔になってしまいそうでした。
いやいや、だって現代文のテストで

主人公は雨が降る夕方の駅で二年前に別れた元恋人を見かけた。
恋人が電車を降りるまで姿を見つめ続けたが、ずっと俯いていた元恋人は主人公に気づかなかった。
この時、主人公に気づかなかった元恋人の心情を次のうちから答えよ

1・仕事で疲れている
2・お腹空いた
3・主人公のことを考えていた

と出題されたら、まず真っ先に除外するのは3でしょう!!
もしも答えが3だとしたら、元カレの描写で「彼の唇が音もなく私の名前を呟いたのが分かった」とか、なんかこう、もっとあるだろなんか!!

と、ここまで野暮なツッコミをしている私ですが、個人的歌詞解釈は「私だけが、あなたを愛していた」派ですが、この歌が言いたいことは「あなたは、私だけを愛していた」であると先ほども書きました。
その理由とは、単純にして最大な、とある一点。
上記の現代文テストが出たとしても、その注釈さえあれば「これは3だな!!」と即選択できるほどの大前提が『駅』にはあります。

主人公は雨が降る夕方の駅で二年前に別れた元恋人を見かけた。
恋人が電車を降りるまで姿を見つめ続けたが、ずっと俯いていた元恋人は主人公に気づかなかった。
この時、主人公に気づかなかった元恋人の心情を次のうちから答えよ

※ただしこの物語を書いたのは、竹内まりやである

この一点につきます。

予想外に長くなってしまったので、発売されて35年以上の月日が経った今でも歌詞の解釈について議論が為されている事情については【後半】へ続こうと思います。

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